支援者のひとりごと

障害者福祉・高齢者福祉にたずさわり感じたこと思うままに

鬱病 備忘録

現在も私は抗鬱剤デプロメール)安定剤(ワイパックス眠剤ハルシオン)眠れないときはレンドルミンを服薬している。

鬱病と診断されたのは今から5年前。もっと前からかもしれないけど、すごくあやふやなのだ。
なので鬱病の備忘録として今日はパソコンを立ち上げた。

私なんかおかしい…?

こう感じたのは23歳とか24歳あたりだろうか。
いまだ仕事を苦痛と感じたことはないのだけれど、当時の私は完璧に“仕事依存症”だったと思う。
機能不全家族で育った私は自分の居場所というものが幼い頃からなかった。
自分を認めてくれるものは、仕事と信じてやまなかった。
22歳ぐらいからだろうか…全く眠くならない。体がダルイわけではなく、眠くない。脳がずっと動いていて常に頭の中はハイテンション状態。
それと同時期くらいに、まったくお腹がすかなくなった。食べものをみるのも苦痛になり、欲がなくなった。

あれおかしいな?とは思っていたけれど、仕事を失うのも怖かったし、とにかくそむけていた。

周りから、言われる…

食べない。寝ない。の生活を送っていれば隠したくても隠せない。
周囲から「ごはん食べてる?」「寝てる?」と聞かれ始めた。「大丈夫」の一点張りを貫いていたが私はその時すでにキャパオーバーしていた。
この時ぐらいから、電車に乗ると変な汗が出始め、過呼吸をおこしていた。幻聴も聞こえ始めていた。道端を歩いていると、道路からよくわからない生き物が出てきて話しかけられたり、車の運転でよく電柱にぶつかっていた。

一緒に病院に行かない?

正直「やっぱり?」と思った。でも大丈夫ですの一点張りをしたことを覚えてる。
周りも無理矢理は連れていけないので、とても困っていたと思う。
その矢先、仕事中、突然フリーズした。
動けない。みんなに説明か何かをしていたはず。片手にペンを持ちながら硬直した。これがお昼だったことは覚えてる。夕方、職場の上司と気付いたら病院にいた。なにを話したかは覚えてないが、上司や同僚が、両親に私の最近の様子や鬱病と診断されたことなどを話してくれたらしい。
私は両親の顔みて、パニックに陥り暴れ、安定剤の注射を刺されたことだけは覚えている。

仕事を3ヶ月休養

医師と職場から、3ヶ月の休養を言い渡された。
仕事を失った私はとにかく心にぽっかり穴があき生きている価値を見いだせなかった。

そして自傷行為をはじめた。

自傷行為はとても気分がすっきりした。
だが誰にも見られたくなくて夜こっそりやっていた。
いまだに消えることのない傷、季節の変わり目に疼くのだ。

自殺行為

自傷行為だけではなく、自殺したかった。生きたくても生きられない人、自殺によって大事な人を失った人には本当に失礼な話だが、当時の私はそれしか頭になかった。
自分の病気がいつ治るのかわからないことへの不安。仕事復帰したものの、体調がやはり優れない。生きている限り誰かに迷惑をかける自分がとにかく嫌で嫌でこの世から去りたかった。

2回ほど自殺行為をしたが、2回ともたまたま自宅を訪れた友人がぐったりしている私を病院へ搬送してくれ今こうして生きている。

死期が来るまで生きてみよう

自殺失敗をへて、もう死に急ぐのはやめようと思った。

いまでも自傷行為はしてしまいます。
いつかこの病気しんどかったな~と過去形で話せる日がくればいいなって思ってます。
そんな日はこないかもしれないです。
今飲んでる薬が1日でもはやく減ったらいいなって思います。

鬱病といっても人によって症状は様々です。
今思うと、もっと早く弱音を吐けばよかったなと思ってます。
認めないのは自分が苦しむだけだな…って思います。

しんどくなったら逃げていいんだよと読んでくれた方に伝われば幸いです。